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FASHION- ファッション -

2019.08.20

ナイキ、リーボック、アディダス……あの名作スニーカーが誕生した背景をプレイバック!

平成が終わり、令和が始まった。思い返せば、平成の30年間でさまざまなスニーカーが世に登場してきた。時代によって流行り廃れ、そしてまた復刻したスニーカーをアナタはどこまで覚えているだろうか? そこで解説者の南井正弘とともに時代を振り返り、平成生まれのスニーカーをプレイバック! 

平成にリリースされた、殿堂入りシューズを一挙お届け!

◼︎1989年、平成の幕開けはエア ジョーダンのブレークとともに


日本でもエアジョーダンに注目が集まるように!
昭和が終わり、元号が平成となった1989年、日本のスニーカーシーンにも大きな変革期が訪れる。‘70年代後期から’80年代前期はナイキやアディダス、ブルックスといったブランドのジョギングシューズと、コンバースのオールスターやトップサイダーのオリジナルといったキャンバス製バスケットボールシューズやデッキシューズ、’80年代中期以降はアディダス スタンスミスやトレトンのナイライト、ケー・スイスのクラシックといったレザー製テニスシューズがポピュラーだったのだが、1989年にエアジョーダンIVがリリースされると、この高機能バスケットボールシューズが日本のスニーカーシーンの主役に突如躍り出たのである。エアジョーダンは1985年に第1作がリリースされた、シカゴ・ブルズに所属したマイケル・ジョーダンの名を冠したモデル。それまでも選手名を付けたスポーツシューズは存在していたが、シューズ、アパレル、マーケティングを戦略的に巧みに組み合わせたシグネチャーコレクションとしては、エアジョーダンがスポーツ業界初の存在であると言われている。第三弾のエアジョーダンⅢまでは、日本であまり注目されていなかったが、サイドのメッシュパネルが印象的な近未来デザインを採用した第四弾の登場により、日本のスニーカーフリークの琴線にも触れることとなる。バスケットボールシューズということであれば、RUN DMCの影響でアディダス スーパースターをひもなしで履くことが日本でも注目されたが、スーパースターの基本設計は‘60年代末期にまで遡ることができ、当時としてもレトロなデザインだったのに対し、エアジョーダンIVのほうは、デザイン&テクノロジーの両面で、最先端を行っていた点が大きく異なる。そして翌1990年にリリースされたエアジョーダンVは、その人気がさらにヒートアップ。このモデルも第四弾と同様に、ナイキが誇る天才デザイナーであるティンカー・ハットフィールドが手掛け、戦闘機のコクピットをモチーフにしたといわれるアッパーデザイン、クリアラバーのアウトソール、足の甲のカーブに沿う形状に成型されたレースストッパーを始めとした斬新なディテールを随所に取り入れ、前作以上に世界各地で激しい争奪戦が繰り広げられた。そして、国内正規分が、ほぼ即日完売すると、日本に並行輸入というかたちで持ち込まれた製品が、希望小売価格よりも、かなり高いプライスタグを付けて売られていたが、それらも早々に売り切れた。それまで並行輸入と言うと、当初は正規代理店の兼松スポーツで取扱いのなかったアディダス カントリーやオフィシャルを小売店などが、独自ルートで海外からダイレクトで仕入れたり、スタンスミスやケー・スイスの例が顕著だったが、小回りの利く専門商社が、内外価格差に着目して、日本の輸入元の希望小売価格よりも安く売るための方策だったが、エアジョーダン以降、日本市場で在庫が枯渇している品番に関しては、プレミアプライスと称して、希望小売価格よりも高く売ることは珍しくなくなった。そういった意味でも、エアジョーダンIVとVのヒットは、日本におけるスニーカー業界の大きな転換点となったのである。

NIKE AIR JORDAN 4(ナイキ エア ジョーダン 4)

NIKE AIR JORDAN Ⅴ(ナイキ エア ジョーダン 5)

 

空気の注入によりカスタムフィットを実現!
一方でリーボックからはザ・ポンプというアッパー内部に空気室を配し、その部分に空気を注入することで足とシューズをフィットさせるテクノロジーを搭載したバスケットボールシューズも登場。ほぼ同タイミングでナイキからもエアプレシャーという類似する機能を有する、同じくバスケットボールカテゴリーのモデルも登場したが、セールスではリーボックが圧勝。しばらくの間、ザ・ポンプはリーボックのフィッティングテクノロジーの代名詞となっていた。


Reebok THE PUMP(リーボック ザ・ポンプ)


◼︎1991年頃からハイパフォーマンスシューズがストリートの主役に躍り出る!

開発競争が激化して
機能戦争の様相に!
1990年代に入ると、スポーツシューズの高機能化は加速する。着地時のクッション性を高めるためにナイキは、ビジブルエアのエアの容量を増大させ、外部からの視認度を高めたエア180(のちに復刻される際にエアマックス 180に改名)を開発。それに加えて、シューズと足のフィットに関しては水上スキーの足を入れる部分のネオプレーン製ブーティやメキシコの伝統的なサンダルのワラーチから着想&ネーミングされたハラチフィッティングを開発するなど、スポーツシューズのハイパフォーマンス化をリード。一方でアディダスはランニング、テニス、バスケットボールといったメジャーなカテゴリーから、フェンシング、ボクシング、ウェイトリフティングといった競技人口のさほど多くないマイナースポーツのシューズまでを網羅したアディダス エキップメントを発表。トルションを始めとした、同社が誇るテクノロジーを結集することで完成したフットウェア&アパレルコレクションであり、最高の機能性をトップアスリートに提供した。リーボックはザ・ポンプ機能搭載モデルが好調で、バスケットボール以外に、全米で人気が加速していたクロストレーニング、エアロビクス、テニス、ランニングといったカテゴリーにも、この機能の搭載を拡大。ピーク時にはザ・ポンプテクノロジーを用いた製品の売り上げだけで、全米スポーツシューズ売り上げのベスト5に名を連ねることができるほどであった。これらのことが示すように、‘90年代初期のスポーツシューズシーンは、ハイパフォーマンスが大きなキーワードとなっていたことは間違いない。

NIKE AIR HUARACHE(ナイキ エア ハラチ)


adidas EQUIPMENT(アディダス エキップメント)

ドリームチームの存在がバスケ人気の拡大に貢献!
そして、もうひとつこの時代で忘れてはならないキーワードがバスケットボールである。エアジョーダンシリーズのヒットはバスケットボールカテゴリー全体に活気を与え、ストリートシーンでの主役の座を確固たるものに。エアジョーダン以外にもナイキのフォース、フライトといったコレクションからリリースされるプロダクトのセールスも良好で、リーボックやコンバースといったライバルブランドのバスケットボールシューズも高い人気を誇った。そしてこのバスケットボールシューズ人気をさらに盤石にし、ワールドワイドへと拡大させるトピックスが生まれる。それがバルセロナ五輪の際に結成された男子バスケットボールアメリカ代表、通称ドリームチームである。一部競技のプロ解禁に伴い、マイケル・ジョーダン、マジック・ジョンソン、ラリー・バード、チャールズ・バークレー、スコッティ・ピッペン、パトリック・ユーイングといったNBAのトッププレーヤーがアメリカ代表に集結。初戦の対戦チームであるアフリカ地区代表のアンゴラの選手たちは、試合前にも関わらず、マイケル・ジョーダンらとの記念撮影を望んだ。このような状況では「ドリームチームを倒してやろう!」という闘争心が湧くはずもなく、116対48の68点差で、アメリカ代表が勝利。その後も決勝のクロアチア戦まで圧勝を続けて金メダルを獲得した。このときにマイケル・ジョーダン、チャールズ・バークレー、スコッティ・ピッペン、デビッド・ロビンソンらはナイキ、マジック・ジョンソン、ラリー・バードはコンバース、カール・マローンはLAギア、クライド・ドレクスラーはアヴィア、パトリック・ユーイングはネクストスポーツといった、それぞれの契約ブランドからリリースされた、星条旗のカラーリングをモチーフにしたホワイト&ブルー&レッドの限定モデルを着用していたが、いずれのモデルも大ヒット。本国アメリカのみならず、日本を含む世界中の国と地域でドリームチームの活躍がバスケットボールファンの話題となるとともに、スニーカーフリークの間でも、彼らが着用したシューズの激しい争奪戦が繰り広げられることとなる。そしてドリームチームの活躍は、バスケットボールというスポーツの普及に大きく貢献することとなる。それが証拠にのちにNBAで活躍することになるアメリカ出身以外のプレーヤーで、彼らのプレーに影響されて、バスケットボールを始めたという選手は少なくなかったのである。ちなみにアメリカではクロストレーニングのカテゴリーがバスケットボールに次ぐ人気を誇り、パフォーマンスでもカジュアルでも確固たるポジションを築くことに成功していたが、この当時スポーツジムの数も充分になかった日本では、そこまでの存在感を示すことはできなかった。

BARCELONA OLYMPIC DREAM TEAM MODEL(バルセロナ五輪  ドリームチームモデル)

 

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次はバッシュ人気の裏で起こった新たなブーム!

 
◼︎1993年、バッシュブームの裏でアウトドアテイストが注目される!

バッシュ人気はキープされ
新たなシリーズも登場!
ドリームチームの活躍もあり、バスケットボールシューズ人気はワールドワイドへと拡大。エアジョーダンではアッパーにクロスストラップを配したエアジョーダンⅧがリリースされたが、前作のエアジョーダンⅦからテレビコマーシャルやプリント広告などでアメリカの著名なアニメーションのバッグスバニーと共演しており、そのグラフィックをプリントしたTシャツも販売。マイケル・ジョーダンとバッグスバニーというアメリカが生んだ人気者同士の組み合わせるというマーケティング戦略も、エアジョーダン人気をサポートすることとなった。一方で全米ナンバー2のシェアを誇りながら、ドリームチームのプレーヤーの誰にもシューズを提供できなかったリーボックは、巻き返しのために期待のルーキーと契約する。それがルイジアナ州立大学出身のシャキール・オニール。その巨体からは想像できないクイックな動きを誇るセンタープレーヤーであり、パワフルなダンクシュートで、度々リングを破壊することでも知られていた。そんな彼のためにリーボックが用意したのがシャックⅠであり、安定性とサポート性、そしてザ・ポンプテクノロジーによる高いフィット感が特徴の1足であった。このようにバスケットボールシューズ人気は、エアジョーダンを筆頭に、バルセロナ五輪が終わったあともキープしていたが、ジョーダンは1993年7月に父親を不幸なかたちで亡くすと、突如引退を発表。第9弾モデルのエアジョーダンⅨは、ジョーダンがNBAで着用しなかったこともあり、アメリカでも日本でもセールス的にはイマイチであった。

日本へは並行輸入で持ち込まれることに
そして、一部のスニーカーフリークたちは、次に注目すべき新たなカテゴリーを模索し始める。そのひとつがアウトドアテイストのフットウェアであり、ナイキのACG(All Conditions Gearの略で、あらゆる環境に対応するギアの意味)は、そのなかでももっとも有名な存在であった。1989年にリリースされたエア ワイルドウッドをデビュー作にスタートした、このアウトドアカテゴリーからは、1991年にエアモワブ、1992年にエアリバデルチ、1994年にエアマーダといったヒット作がリリースされた。そして、日本でもカルト的な人気を誇ったのが、“21世紀のモカシン”の触れ込みでデビューしたエアモックだった。1994年に登場した、このモデルは、山登りで疲れた足をリラックスさせ、疲労回復の促進を狙った1足。アフターキャンプをコンセプトに開発されたプロダクトであったが、一部のスニーカーフリークは、そのシンプルながらも存在感のあるフォルムに魅了され、ストリートで着用。シューレースがないというその形状や、ワンピースのヌバックをアッパーに使用しているというマテリアルチョイス、雰囲気から、日本の税関はエアモックをスポーツシューズと認めず、高い関税を支払わないと、日本に輸入することができなかったため、日本でのナイキジャパンでの取り扱いはなく、そのすべてを並行輸入やハンドキャリーに頼ることになる。日本では割高なプライスタグが付けられたエアモックだったが、まずファッション業界の人々の足元を飾り、それがストリートファッション誌などで紹介されると、ポストバスケットカテゴリーを探していた人々にも注目され、日本のスニーカーフリークにもしっかりと受け入れられたのである。そして、ほぼ同時期に話題となったのが、リーボックのビートニク。こちらも純粋なスニーカーではなく、センターシームのクラシックなアッパーデザインとシャークソールを組み合わせたアウトドアテイストのサンダル。このモデルもエアモックと同様に、当時リーボックジャパンによる正規展開はなく、エアモック以上に少ない流通量だったが、スニーカーフリークに与えたインパクトは遜色なかった。スポーツシューズの生産はそのほとんどすべてがアジア地域となっていた時代に、このビートニクの生産はブラジル。しかもスポーツシューズではなく、カジュアルシューズの製造を得意とする工場での生産であり、一般的なスニーカーにはない重厚感やアジがあったことも、ファッション業界関係者やスニーカーマニアに受けた大きな理由だろう。ちなみにエアモックもビートニクものちに日本に正規輸入が開始されたが、関税対策でアッパーに人工皮革を使用したモデルも存在。これらはオリジナルが持つ独特なアウトドアテイストと重厚感が感じられないとして、不評だった。

NIKE AIR MOC(ナイキ エア モック)

Reebok BEATNIK(リーボック ビートニック)

◼︎1995年頃から芽生えるハイテクスニーカーブーム!

現代でも愛される
斬新なデザインの1
1994年になると、スケットボールカテゴリーの失速は明確に。1995年3月にマイケル・ジョーダンはNBAに復帰するものの、ブランクの影響は大きく、NBAプレーオフ カンファレンス セミファイナルでシカゴ・ブルズはオーランド・マジックに2勝4敗で敗れ、復帰シーズンは終了。第10弾モデルとなるエア ジョーダン Xは、都市限定カラー5モデル(シカゴ・ニューヨーク・オークランド・シアトル・サクラメント)が人気となるなど、エア ジョーダン IXよりは良好なセールスを記録したものの、かつての熱狂ぶりからはほど遠かったし、バスケットボールカテゴリー全体としても往時の勢いは感じられなくなっていた。この頃からアメリカでも日本でも、スニーカーフリークだけでなく、業界関係者もポストバスケットボールカテゴリー探しに躍起となった。そんな1994年にデビューしたのが、リーボック ランニングのフラッグシップモデルであったインスタポンプフューリー。インスタポンプとは、従来のザ・ポンプとは異なり、空気を入れるブラッダーをアッパーに内包するのではなく、それ自体がアッパーの一部となる構造を採用したフィッティングテクノロジー。このテクノロジーを搭載したシューズは、陸上の世界選手権やオリンピックで活躍するアスリート、マイケル・チャンのようなプロテニスプレーヤー向けに供給され、ほとんど市販はされていなかった。当初は手動では空気を入れられず、専用のインフレーターで圧縮炭酸ガスを注入して足とシューズの一体化を行ったが、インスタポンプフューリーの世代からは手動とインフレーターの両方でのフィット感調整が可能となった。インスタポンプフューリーは、インスタポンプの搭載以外にも、大胆なカラーコンビネーション、土踏まず部分のミッドソールを取り除いて、炭素繊維のプレートを配して軽量化とサポート性を向上させたグラフライトを組み合わせることで、それまでのランニングシューズにとはまったく異なった斬新なプロダクトに仕上がっていた。その奇抜さが理由で、ファーストシーズンは日本では受注状況は芳しくなく、高価ということもあって、セールスも振るわず、年末のリーボックジャパンの社員向けファミリーセールに出品されたほど。それが翌1995年、いくつかのストリートファッション誌で紹介され、カルチャー誌の表紙でアイスランドの歌姫ビョークが着用すると、瞬く間にヒットモデルの仲間入り。後述するナイキ エアマックス 95とハイテクスニーカーブームをリードすることになるのだから、世の中はわからない。そして驚くべきことに、この革新的なデザインのスニーカーが、デビューから25年経過した2019年でもリーボック クラシックの看板アイテムとして売れ続けているだからすごい。

Reebok INSTAPUMP FURY( リーボック インスタポンプフューリー)


ディスクブレイズには日本限定モデルも登場!
この頃になると、プーマのディスクシステムもスニーカーフリークから注目を集める存在となっており、とくに吉祥寺と新宿に店舗を構えた「テクテック」の関村求道氏ディレクションによるディスクブレイズ レザーは大ヒット。日本のストリートシーンでプーマというブランドの存在を大きくアピールすることに成功した。ちなみにエア ジョーダンは、1995年に第11弾となるエア ジョーダン XIが登場。パテントレザー(エナメル)を使用するなど、スポーティさにドレッシーな雰囲気が同居したプロダクトは、バスケットボールファンとスニーカーフリークの両方から高い評価を得て、エア ジョーダンとしては久しぶりのヒットを記録。後にミッドソールとアウトソールこそ共通だったものの、ハイカットとまったく異なるアッパーデザインを採用したローカットがリリースされたことも大きな話題に。エア ジョーダン XI自体は良好なセールスを記録したものの、カテゴリーとしてのバスケットボールは、ランニングなどのカテゴリーに、明らかに押されていた。

PUMA DISC BLAZE LEATHER(プーマ ディスク ブレイズ レザー)

 

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続いてはあの名作がついに登場!

 
◼︎スニーカー史上屈指のモンスターアイテムのデビューは1995年!

シューズのデザインは
人体をモチーフに
1995年と聞いて、スニーカーフリークなら誰もが真っ先に思い出すのは、ナイキのエア マックス 95で間違いないだろう。それまでのエア マックスのアッパーサイドに大きくスウッシュが配されたデザインを捨てた、エア マックス 95のまったく新しいデザインは、アッパーの段差は筋肉の隆起、アウトソール中足部は背骨というように、人体をモチーフにしており、ブランドを象徴するスウッシュも、ヒールの外側部分に小さく刺繍で入れられるのみ。2015年にインタビューした際に、担当デザイナーのセルジオ・ロザーノは、このデザインで製品化するのには幾度もの困難が訪れたと語っていた。それは前述したデザインだけでなく、そのカラーリングも攻撃対象となった。それまでのエア マックスは、ホワイトベースにブルーやレッドといったアクセントカラーを組み合わせることが一般的であったのに対し、エア マックス 95はスポーツシューズではあまり用いられることのなかったグレーカラーのアッパーを採用し、ミッドソールもブラックだった。そのことから、「このカラーリングでは絶対に売れない」と、猛烈に反対する営業部門の社員もいたという。実際にアメリカでも日本でも、展示受注会におけるプレオーダーの段階では、のちにスニーカー史上空前のヒットモデルとなるような発注はつかなかったというし、リリースされたあともしばらくは、そこまで騒がれるような状況ではなかった。それが著名クリエイター、ファッション業界のキーパーソンの愛用品として雑誌などで紹介されると、大きく風向きが変わる。希望小売価格で売っていた正規販売店の在庫はあっという間になくなり、並行輸入品が大量に日本市場に持ち込まれた。ここまではエア ジョーダンetc.のときと同じだったが、違っていたのは、その価格が1足のスニーカーに払うお金とは思えないほどに高騰したこと。ファーストカラーのグレーモデルは、10万円を超えることは珍しくなくなり、サイズによっては20万円に到達。最終的に30万円を超えるプライスを設定する店まで現われたことにビックリしたが、その価格でも実際に売れたことのほうが、より大きな驚きであった。このように、従来のスポーツシューズにはない斬新なデザインとカラーリングを採用することで、スニーカーの歴史上、1、2を争うヒットモデルとなったエア マックス 95であるが、その機能面でも革新的であったことを忘れてはならない。このモデルでは初めてフォアフット(前足部)のエアのビジブル化に成功しており、このディテールもエア マックス 95の大きな魅力であり、快適な履き心地に貢献してくれた。

NIKE AIR MAX 95(ナイキ エア マックス 95)


エアマックス95の人気は日本が発信源だった!?
そしてもうひとつ忘れられないのが、エア マックス 95の大ブレークが、本国アメリカよりも早かった点。もちろんアメリカ市場においても、最終的にヒットモデルの仲間入りをするのだが、そのタイミングは日本より遅く、その当時何度かアメリカを訪れたが、ファーストカラーのグレーグラデこそ見つけられなかったが、少し探せば他のカラーリングは、フットロッカーやチャンプスなどで現地の希望小売価格で入手することができたからだ。デザインしたセルジオ・ロザーノも「当時の日本での熱狂ぶりを聞いたときは本当に圧倒されました。ファーストカラーは1足で数十万円にもなったらしいですね? ストリートカルチャーの勢いを感じました。その後、世界各地でも人気となりましたが、日本における人気を超える地域はありません」とコメント。スニーカーの場合、アメリカでヒットして、1~2か月ほどタイムラグがあって、日本にもそのトレンドが波及するということがそれまでのパターンであったが、これ以降、日本からスニーカーのトレンドが発信されることも珍しくなくなり、エア マックス 95の日本における大ヒットは、日本企画のスニーカーが次々と登場するキッカケとなったといっても過言ではない。

◼︎ハイテクブームは1997年に終焉し、一転ローテクブームへ

エアマックスでさえ苦戦する時代に突入!
空前絶後のハイテクスニーカーブームにより、一躍世界のスニーカーシーンの中心となった日本。ナイキのエア マックス 95とリーボックのインスタポンプフューリーが牽引したブームは、1996年も継続。エア マックス 96やフューリーロードといった後継モデルも良好なセールスを記録したが、1997年になるとハイテクスニーカーの売り上げは鈍化し始める。リーボックのDMXランは、新たな形状のユニットDMX10を採用したことで好調なファーストダッシュを切ったものの、セカンドカラー以降は在庫過多に悩み、春モデルの売り上げが芳しくなかったエア マックスは、未来を感じさせるアッパーデザインとフルレングスビジブルのニューソールユニットを採用した秋モデルで若干の挽回を見せたが、エア マックス 95のときの熱狂と比較すると、ほど遠いものがあった。替わりに台頭したのが、ハイテクの対義語としてローテクと名付けられたクラシックスニーカーたち。コンバース オールスターやジャックパーセルを始めとしたバルカナイズ製法のプロダクトのようなクラシックなモデルに注目が集まり、キャンバスアッパーモデルだけでなく、高級感のあるレザーアッパーバージョンも登場。ローテクブームに拍車をかけた。また、この時代にはスニーカー以外にもレッドウイングのアイリッシュセッターやビルケンシュトックのサンダルのようなロングセラーが再評価されたが、アイリッシュセッターのブラックが大人気となったように、単なる懐古主義ではなく、数週間に一度ニューモデルがリリースされていたハイテクブームの反動で、もっとゆっくりしたサイクルのなかで、じっくりと選んで、よいモノを長く履きたいという、ユーザーの新たな志向を垣間見ることができた。

NIKE AIR MAX 97(ナイキ エア マックス 97)


Reebok DMX RUN(リーボック DMX ラン)


CONVERSE JACK PURCELL(コンバース ジャックパーセル)

スノーボードの雄が
ニューブランドを発表!
このような時代に対応するが如く、ナイキは、スニーカーフリークや古着マニアから長年復刻が望まれていたダンクのリリースを決定。通称“紺黄”と呼ばれたネイビーとイエローのカラーコンビネーションを始めとした、オリジナルに存在していたカラーリングの復刻に加えて、東京シティアタックと名付けられたプロジェクトからは配色を逆にした裏ダンクも登場。スニーカーフリークから高い人気を誇った。そして、まったく異なった業界からフットウェアマーケットにチャレンジする企業も現われる。それがスノーボードのトップブランドであるバートンがオペレーションするグラビスである。上質なヌバックをアッパーに使用し、着脱の簡単な構造を採用したライバル、ファクターといったスニーカーは、スノーボードの行き帰りに着用するのに最適なスペックを採用していたが、すぐにスニーカーフリークも魅了。当初は日本への入荷数量が限られていたために、プレミア価格で販売されることも珍しくないほどの人気に。供給体制が整って以降は、前述のモデルに加えてターマックやコナといったニュープロダクトをリリースすると、それらもヒット。日本のフットウェアマーケットにおいて確固たるポジションを築くことに成功したのである。そして、この当時ニッチながらしっかりと存在感を示していたのがニューバランスのUK製M576。アメリカ製の同モデルの特徴が重厚感なら、こちらは繊細さ。ケミカルなグリーンのような独特なトーンのスエードアッパーは、ローテクブームのマーケットにおいて、しっかりと目立つことに成功していた。一方で、‘90年代半ばまでは飛ぶ鳥を落とす勢いだったナイキのエア ジョーダンは、第15弾がリリースされた1999年頃にはほとんど注目されることのない存在に。スニーカー業界における栄枯盛衰を象徴していた。

NIKE DUNK(ナイキ ダンク)

gravis(グラビス)

 

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2000年へ、そして再び起こるハイテクブーム!

 
◼︎2000年代に突入し、第二次ハイテクブームが到来!

ミレニアムに突入すると
トレンドが劇的に変化!
1999年まではローテクスニーカーが全盛で、ハイテクスニーカーの復活は難しいと思われていた。前回のハイテクスニーカーブームの際の不良在庫は膨大で、希望小売価格の半額で売られることもしばしば。さらに日本でも各地に建ち始めたファクトリーアウトレットでは、元値の数分の1の最終プライスが付けられることも珍しくなかった。そのような状況では、「ハイテクスニーカー=カッコいい」という図式は描きづらかったが、世の中で“ミレニアム”がキーワードとなった2000年を迎えると、それを合図に、日本のスニーカーシーンも大きな変化を迎えることになる。ナイキから続々とリリースされたニュープロダクトが時代を変えたのである。ランニング後に足をリラックスさせる目的で開発されたアフタースポーツモデルで、S,M,L,XLのようなアパレルサイジングを採用したエア プレストや、ズームエアを採用することで足裏感覚と高い反発性を確保し、その機能性の高さを松井稼頭央(当時西武ライオンズ)のテレビコマーシャルで強調したエア ズーム ヘイブンといった魅力的なデザインのニューモデルがリリースされると、スニーカーシーンのトレンドは、再びハイテクの方向へ動き始めたのである。これらニューモデルに加えて、前年に発表されたエア ズーム  サイズミックや1996年にオリジナルが登場したエア リフトなども人気を集めたことで、2000年はスポーツシューズ業界関係者が第二次ハイテクスニーカーブームとネーミングした時代を迎え、日本のスニーカーマーケットは再び活況を呈することになる。そして2001年には藤原ヒロシ氏がディレクションしたモノトーンコレクションが登場し、スニーカーフリークから人気に。このコレクションはエア ズーム サイズミック、エア テラフマラ、エア マックス 120の3モデルをキャンバスに、その名の通りシンプルにホワイトとブラックのモノトーンカラーと融合。グリーンのアクセントも印象的だった。こうした魅力的なプロダクトのリリースもあり、ハイテクスニーカーブームは翌2002年もしっかりとキープ。アディダスからはアウトソール側にも通気孔を設けることで、比類なき通気性を確保したクライマクールが登場。高温多湿の日本の夏でも快適な履き心地を提供してくれた。

NIKE AIR PRESTO(ナイキ エア プレスト)

NIKE AIR ZOOM HAVEN(ナイキ エア ズーム ヘイブン)

NIKE AIR ZOOM SEISMIC(ナイキ エア サイズミック)


女性も巻き込んだのが
従来のブームとの違い!
この第二次ハイテクスニーカーブームは、これまでのスニーカーブームと比較して大きな違いがあった。それは男性だけでなく、女性もこのトレンドに乗ったということ。1992年をピークとしたバスケットボールシューズブーム、1995年にエア マックス 95やインスタポンプフューリーがリードするかたちでスタートした第一次ハイテクスニーカーブームetc,では、ブームに参加したほとんどが男性で、女性の多くは「どうして、あそこまでスニーカーに夢中になれるのだろう……」と、冷静に見ていたのだが、このときは「宇多田ヒカルの『Wait & See ~リスク~』のプロモーションビデオに登場している、コムデギャルソンとコラボしたエア ズーム ヘイブンが欲しい!」といった感じで、女性も積極的にブームの輪の中に入っていったのである。それに呼応するかたちで女性ファッション誌も頻繁にスニーカーを取り上げ、ブームに拍車を掛けた。その結果、エア ズーム ヘイブン、エア プレスト、エア リフト、エア スーパーフライといったナイキのモデルは、女性の間でも高い人気を誇ったが、それ以前に日本の女性が、ここまでスニーカーに興味を持ったことはなかったのである。こうしたトレンドに呼応するかたちで、各ブランドは女性のニーズを分析し、それにマッチしたカラーリング、デザイン、マテリアルミックスを備えたラインアップを提案するようになり、現在に至っている。

NIKE AIR RIFT(ナイキ エア リフト)


2000年代半ばを迎えるとブームに陰りが
日韓ワールドカップ、アテネ五輪といったスポーツのビッグイベントもあり、ハイテクスニーカーは一定のセールスを記録していたが、2000年代の半ばを迎えると、失速が感じられるようになる。ナイキが発泡素材を使わずに、ナイキエアだけでミッドソールを構成したことで大きな話題となったエア マックス360あたりは良好なセールスを記録したものの、2006年を迎えて以降、ハイテクスニーカーにとって辛い時代となってしまった。

NIKE AIR MAX 360(ナイキ エア マックス 360)
◼︎2005年に訪れたハイテクスニーカー、冬の時代

歴史的なモデルのアニバーサリーが話題に!
前述の通り、2000年代の半ばを迎えると、ハイテクスニーカーに勢いを感じられなくなったが、そんな時代に注目を集めたのが、各ブランドが誇るロングセラーだ。まず2005年にアディダスがスーパースターの誕生35周年を祝して35種類のスペシャルモデルをリリースすることを発表。そのなかには日本の人気漫画「キャプテン翼」やNBAの伝説のプレーヤーであるカリーム・アブドゥル・ジャバー、ロンドンの人気スニーカーショップであるフットパトロール、日本の人気ファッションブランドであるネイバーフッドとのコラボレーションモデルも含まれ、いずれも高い人気を誇った。そして2007年になると、1982年に初めてナイキエアを搭載したバスケットボールシューズとして歴史に名を刻むエア フォース1の25周年を記念した限定モデルも続々と登場。原宿には期間限定ショップの1LOVEをオープンさせ、製品の販売だけでなく、NIKEiD STUDIOが解説され、入場を許された限られた人々は、このスペースで自分だけのエアフォース1をカスタマイズすることができた。

adidas Originals SUPERSTAR(アディダス オリジナルス スーパースター)

NIKE AIR FORCE 1(ナイキ エア フォース 1)


女性が憧れたのは
等身大のインフルエンサー
アディダス スーパースターの誕生35周年とナイキ エア フォース1の25周年はあくまで特需であり、2000年代中期以降、スニーカー業界全体が厳しい時代を迎えていた。トレンドに大きく左右されることなく、スニーカーがライフスタイルに根付いた現在では想像しにくいが、この当時、女性の関心はパンプスやブーツに向かい、大学生などの男性もスニーカーには関心がなく、彼らの足元は、つま先の尖ったカジュアルシューズとドレスシューズの中間のような靴が主流になっていた。そういった厳しい状況を経て、女性がスニーカーを履きだしたのは、何人かのインフルエンサーの影響が大きかった。その一人はモデルでタレントの梨花で、彼女が2010年代半ば以降に、ニューバランスのM1400を始めとしたアメリカ製の高額なスニーカーを履きだすと、彼女のフォロワーのみならず、お洒落な女性の間でニューバランスのスニーカーが注目されることに。ほぼ同じタイミングでモデルの滝沢眞規子も、ニューバランスのM1400などをコーディネイトに取り入れたことも大きな追い風となり、あっという間に女性サイズのM1400は欠品となった。この二人に共通するのは、彼女たちが超メジャーではない点。当時言われたのが、等身大で親しみがある存在ということである。またヴァンズのオーセンティックやエラが若い女性の間でブームとなったのもこの頃で、手頃な価格と豊富なカラーバリエーション、そしてあらゆるスタイルにコーディネイトしやすいベーシックなデザインが決め手となり、マストアイテムとしてファッション雑誌の記事にしばしば取りあげられることに。さらにしばらく日本での展開を休んでいたアディダスからスタンスミスが2014年に復活すると、女性の定番としてヒットしたことも記憶に新しい。

VANS AUTHENTIC(ヴァンズ オーセンティック)

adidas Originals STAN SMITH(アディダス オリジナルス スタンスミス)


ハイテクとローテクが
共存する時代に!
2010年代中期になると、巷ではハイテクスニーカーも息を吹き返しており、ハイテクスニーカーとローテクスニーカーが共存する時代になっていた。そして2015年にリリースされたアディダスのウルトラブーストが代表的だが、ハイテクモデルは、かつてのように奇抜なカラーやデザインを強調したモデルだけでなく、落ち着いたトーンのカラーリングやニットアッパーを採用するなど、その高機能をデザインへと巧みに溶け込ませているのも大きな特徴といえた。それゆえウルトラブーストはランニングからライフスタイルまでシームレスに対応し、高価格にも関わらず、世界的に大ヒットしたといえる。反対にNMDのようにアディダス オリジナルスのモデルでありながら、ハイテク感を演出するモデルがヒットするなど、両者の関係は以前とは異なって、かなりボーダーレスになっているといってよいだろう。

adidas UltraBOOST(アディダス ウルトラブースト)


◼︎2015年頃からはニューコンセプトの1足が続々と登場!

高価格帯ゾーンをアディダスが占有!
前述したウルトラブースト、NMDに加え、シーユーレーターやカニエ・ウェストのディレクションによるイージーのヒットもあって、2016年以降、アディダスが高価格帯ゾーンの売れ筋上位を占める時代が最近まで続いていた。カニエ・ウェストによるイージーは、元来ナイキとのコラボレーションからスタートしており、エアイージー1とエアイージー2がリリースされて、即完売&プレミア価格が高騰したが、ナイキとの関係が良好でなくなったタイミングで、カニエ・ウェストとアディダスの契約が成立したのである。アディダスとのコラボレーションがスタートして以降もイージーブースト350を始めとした同コレクションは、スニーカーフリークから高い人気を得ることに成功。2016年以降、もっとも人気の高いスニーカーコレクションとなった。最近はピーク時ほどの勢いはないものの、スニーカーフリークに注目されるコレクションであることに変わりない。

adidas ”YEEZY BOOST”(アディダス ”イージーブースト”)



ナイキのコラボ相手は
新進気鋭のデザイナーと!
一方でナイキはルイ・ヴィトンのメンズ部門ディレクターも務めるオフホワイトのヴァージル・アブローとのコラボレーションをスタート。“The Ten”とネーミングされたコレクションは、ヴァージル・アブローがナイキのアイコンといえるエア ジョーダン 1、エア プレスト、ブレイザーといった10足をデコンストラクト(分解)&アレンジ。オフホワイトのアパレルコレクションでもおなじみの、アルファベットのロゴを目立たせたディテール、梱包につかう結束バンドをデザインの一部にしたシューズコレクションは、ファッショニスタとスニーカーフリークの両方から高い評価を得ており、これまでにリリース&即完売を繰り返してきた。“The Ten”のヒットによって、ストリートシーンにおけるナイキの評価は高まり、その結果インラインのプロダクトのセールスにも好影響を与えている。

NIKE ”THE TEN”(ナイキ ”ザ テン”)


モードとスポーツの関係はより密接となる!?
いかにもおじさんが履いていそうな、ボリューミーで野暮ったいスニーカーの総称であるダッドスニーカー。現在のスニーカーシーンでは重要なキーワードとなっているが、そのスタイルを最初にメジャーとしたのは、スニーカーブランドではなく、世界的に著名なコレクションブランドのバレンシアガであるといわれている。トリプル S トレーナーと名付けられたオーバーサイズのスニーカーは、高価にもかかわらず、世界中のファッショニスタを魅了し、長きに渡り、その人気をキープしており、最近では「バレンシアガといえば、あのボリュームたっぷりなスニーカーのでしょ?」と言われるほど著名な存在となっている。このことが示すように、モードブランドにおけるスポーツは、より重要な存在となっているのだ。今から20年ほど前、プラダがプラダスポーツをスタートさせることでモードブランドにおけるスポーツテイストの重要性をいち早く強調すると、ジル・サンダーもプーマとのコラボレーションスニーカーをキャットウォークでデビューさせたあと、実際に発売し大ヒット。これに続いてアディダスはヨウジヤマモトとのコラボレーションでY3をスタートさせるなど、モードブランドとスポーツの関係は密接になる一方。平成が終わり、新たな元号がスタートしたこの2019年。スポーツブランドだけでは実現できない突拍子もないプロジェクトが、生まれそうな気がする。いまからそれが楽しみである。

この30年でスニーカーはより身近な存在となった!
ここまで平成のスニーカーヒストリーを振り返ってみて、ひとつ気付いたことがある。平成がスタートした1989年当時、1年に5足以上のブランドスニーカーを購入するユーザーは、あまり多くなかったが、最近ではまったく珍しくないということ。これはスニーカーを買える場所が増えたということもあるが、スニーカーという存在が、日本のマーケットでも当たり前の存在となったということだ。今は老若男女問わずナイキやアディダスのスニーカーを履くことは珍しくないが、今から30年前は、こうしたブランドスニーカーを履くのは10代半ばから30代が主な年齢層で、幼児や老人が履いているケースは滅多になかった。これからもスニーカーは我々の生活にとってより密接な存在となっていくだろう。

これにて平成スニーカー史は終わり! 懐かしいモデル、最近世を賑わせているシューズなどが次々に出てきたはず。令和はどんなスニーカーがリリースされていくのか、楽しみは尽きない!


解説してくれたのはこの人!

南井正弘
Profile
フリーライター。スポーツブランドのプロダクト担当として10年勤務後ライターに転身。専門家として、スニーカー、ランニングシューズetc.の記事を中心に執筆している。

 

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平成に起こった出来事を一気におさらい!

 
◼︎1989年〜2019年までの主な出来事

1989年(平成元年)

1月8日 - 平成に改元
1月11日 - 美空ひばり「川の流れのように」をリリース
4月1日 - 消費税開始(3%)
4月21日 - 任天堂がゲームボーイを発売
6月4日 - 天安門事件起こる
6月24日 - 美空ひばり死去
7月29日 - 映画「魔女の宅急便」(宮崎駿監督)が公開
9月27日 - 横浜ベイブリッジ開通
10月4日 - 「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!」(日本テレビ)がレギュラ一放送開始
11月10日 - ベルリンの壁崩壊
12月3日 - マルタ会談→東西冷戦終結

1990年(平成2年)

1月7日 - 『ちびまる子ちゃん』(フジテレビ)が放送開始
2月14日 - ローリング・ストーンズが初来日公演
3月1日 - 麒麟麦酒が「キリン一番搾り生ビール」を発売
3月13日 - 角川書店が「東京ウォーカー」創刊
6月8日 - FIFAワールドカップ イタリア大会開催
8月2日 - イラク軍がクウェート侵攻
8月-『クレヨンしんちゃん』(双葉社)が連載開始
10月-『スラムダンク』(集英社)が連載開始
10月3日 - 東西ドイツ統一
11月21日 - スーパーファミコンが発売される
12月-『幽遊白書』(集英社)が連載開始

1991年(平成3年)

1月17日 - 湾岸戦争勃発
2月-バブル経済崩壊
4月1日 - 東京都庁が西新宿に移転
4月1日 - 牛肉とオレンジの輸入(自由化)が開始
5月14日 - 千代の富士引退
5月31日 - ジュリアナ東京オープン
6月3日 - 長崎県・雲仙普賢岳で大火砕流発生
9月9日 - SMAPがCDデビュー
9月17日 - 韓国と北朝鮮が国際連合に加盟
11月24日 - クイーンのボーカル、フレディ・マーキュリー死去
12月25日 - ソ連崩壊

1992年(平成4年)

2月8日 - アルベールビル冬季五輪開幕
3月14日 - 東海道新幹線で「のぞみ」が運転開始
3月25日 - ハウステンボスが開業
4月25日 - 尾崎豊死去
6月15日 - PKO協力法成立
7月1日 - 山形新幹線開業
7月25日 - バルセロナ夏季五輪開幕
12月31日 - チェッカーズが『第43回NHK紅白歌合戦』への出演を最後に解散

1993年(平成5年)

1月27日 - 大相撲の曙が外国人力士として初めて横綱に昇進
3月31日 - 福岡ドームが完成
5月15日 - Jリーグ開幕
6月9日 - 皇太子徳仁親王、小和田雅子さんのご成婚
6月21日 – TRFが『EZ DO DANCE』をリリース
8月9日 細川連立内閣成立
8月26日 - レインボーブリッジ開通
10月28日 - サッカー日本代表対イラク戦、W杯出場を逃す(ドーハの悲劇)
12月10日 - ネルソン・マンデラにノーベル平和賞

1994年(平成6年)

2月12日 - リレハンメル冬季五輪開幕
4月27日 - ネルソン・マンデラが南アフリカ共和国初の黒人大統領となる
4月28日 - 羽田孜内閣成立
6月17日 - FIFAワールドカップアメリカ大会開催
6月27日 - オウム真理教によって松本サリン事件発生
6月30日 村山富市内閣成立
9月4日 - 関西国際空港開港
9月20日 - オリックスのイチローが史上初の1シーズン200本安打を記録
11月22日 -家庭用ゲーム機「セガサターン」発売
12月3日 -家庭用ゲーム機「プレイステーション」発売

1995年(平成7年)

1月17日 - 阪神淡路大震災(M7.3)発生
2月13日 - 野茂英雄の米大リーグロサンゼルス・ドジャース入団が決定
3月15日 ダウンタウン浜田雅功と小室哲哉による音楽ユニットH Jungle With tが『WOW WAR TONIGHT 〜時には起こせよムーヴメント』をリリース
3月20日 - 地下鉄サリン事件
5月3日 – シャ乱Q『ズルい女』リリース
5月 – 漫画「ドラゴンボール」連載終了
6月8日 – 全仏オープンテニスで伊達公子が日本人選手初のベスト4進出
10月4日 – テレビ東京系列でアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』が放送開始
11月23日 – マイクロソフト ウインドウズ 95日本語版が発売
11月26日 – 大相撲九州場所千秋楽で史上初、兄弟による優勝決定戦が行われ兄の若乃花が優勝

1996年(平成8年)

1月8日 - 日本テレビ、人気アニメ「名探偵コナン」(読売テレビ制作)が放送開始
1月11日 - 橋本龍太郎内閣発足
2月27日 – ゲームボーイ用ソフト「ポケットモンスター 赤・緑」発売
4月1日 - 国内初の商用検索サイト「Yahoo! JAPAN」がサービスを開始
7月19日 - アトランタ夏季五輪開幕
11月23日 - バンダイが携帯ゲーム機「たまごっち」を発売
12月5日 - 広島県の原爆ドームが世界遺産に登録される

1997年(平成9年)

1月7日 – フジテレビ系でドラマ「踊る大捜査線」放送開始
4月1日 - 消費税が5%となる
7月1日 - 香港がイギリスから中国に返還される(香港返還)
7月12日 - 映画『もののけ姫』(宮崎駿監督)が劇場公開
7月26日 - フジロックフェスティバル初開催
8月31日 - ダイアナ元イギリス皇太子妃、パリで交通事故死
10月22日 - 歌手の安室奈美恵がTRFのダンサー・SAMと結婚
11月16日 – サッカー日本代表がW杯初出場を決める。(ジョホールバルの歓喜)

1998年(平成10年)

2月7日 - 長野冬季五輪開幕
4月4日 - アントニオ猪木東京ドームで引退試合
6月27日 - 大相撲・貴乃花と若乃花、史上初の兄弟横綱が誕生
6月10日 - FIFAワールドカップフランス大会開催
7月25日 – マイクロソフト ウインドウズ 98日本語版が発売
7月30日 - 小渕恵三内閣成立
8月29日 - iMac発売
12月9日 – 宇多田ヒカルが1stシングル「オートマティック/タイム ウィル テル」をリリース

1999年(平成11年)

2月3日 GLAYが『ウインター アゲイン』をリリース
2月22日 – NTTドコモiモードサービスがスタート
6月26日 – 広末涼子の早稲田大学初登校にキャンパスが騒然
8月11日 – 浜崎あゆみが「A」をリリース。ミリオンセラーに
9月9日 – モーニング娘。が「LOVEマシーン」をリリース
10月11日 – フジテレビ系で「あいのり」放送開始
10月20日 - フジテレビ系、人気アニメ『ワンピース』が放送開始
12月20日 - マカオがポルトガルから中国に返還される(マカオ返還)

2000年(平成12年)

1月26日 – サザンオールスターズ「TSUNAMI」発売
3月4日 - 「プレイステーション2」発売
4月5日 - 森喜朗内閣成立
4月14日 – TBS系ドラマ「池袋ウエストゲートパーク」放送開始
4月26日 – 福山雅治が「桜坂」をリリース
7月8日 - 三宅島雄山噴火
9月15日 - シドニー夏季五輪開幕
9月24日 - シドニーオリンピック女子マラソンで、高橋尚子がオリンピック最高記録で金メダルを獲得
11月 – Jフォン(現ソフトバンク)からカメラ付き携帯電話を発売

2001年(平成13年)

1月8日 – フジテレビ系で木村拓哉主演のドラマ「HERO」放送開始
3月14日 – バンプ・オブ・チキンが「天体観測」をリリース
3月31日 - ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)開業
4月2日 - イチローがメジャーリーグデビュー
4月26日 - 小泉純一郎が第87代首相に就任。第1次小泉内閣発足
7月20日 –映画「千と千尋の神隠し」(宮崎駿監督)が劇場公開
9月4日 - 東京ディズニーシー開園
9月11日 - アメリカ同時多発テロ
10月23日 - AppleがiPod発表

2002年(平成14年)

2月8日 - ソルトレークシティ冬季五輪開幕
2月22日 - 家庭用ゲーム機「Xbox」が日本国内で発売
3月2日 – 映画『モンスターズ・インク』劇場公開
5月31日 - FIFAワールドカップ日本、韓国大会共同開催
9月17日 - 日朝平壌宣言
12月9日 – 松井秀喜がニューヨーク・ヤンキースとの3年契約に合意

2003年(平成15年)

1月20日 - 第65代横綱貴乃花が引退
1月29日 – 朝青龍が第68代横綱に昇進。モンゴル人初の横綱誕生
3月5日 – 森山直太朗「さくら」をリリース
4月25日 - 六本木ヒルズがグランドオープン
10月7日 - カリフォルニア州知事に俳優・アーノルド・シュワルツェネッガーが当選
12月1日 - 地上デジタルテレビ放送が東京、大阪、名古屋で開始

2004年(平成16年)

1月19日 - 自衛隊イラク派遣開始
2月4日 - マーク・ザッカーバーグがSNSのFacebookを開設
4月1日 - 帝都高速度交通営団(営団地下鉄)が民営化され、「東京メトロ」に
5月 – 映画『世界の中心で愛を叫ぶ』劇場公開
8月13日 - アテネオ夏季五輪開幕
11月1日 - 新紙幣発行
11月2日 -パ・リーグの新規参入球団として東北楽天ゴールデンイーグルス承認される
12月2日 - 「ニンテンドーDS」が発売
12月12日 - 「プレイステーション ポータブル(PSP)」が発売

2005年(平成17年)

2月16日 – ケツメイシ「さくら」リリース
3月25日 - 2005年日本国際博覧会(愛知万博)「愛・地球博」が開幕
4月25日 - JR福知山線脱線事故
5月6日 - 日本プロ野球史上初のセ・パ交流戦が開幕
8月29日 – 東野圭吾による小説「容疑者Xの献身」刊行
9月10日 – 映画『チャーリーとチョコレート工場』劇場公開
10月18日 – トヨタ自動車、過去最大のリコール発生
10月23日 – 武豊騎手騎乗のディープインパクトが三冠制覇を達成
11月16日 – レミオロメン「粉雪」リリース

2006年(平成18年)

1月23日 - ライブドアの堀江貴文社長と取締役3人が、証券取引法違反容疑で逮捕
2月10日 - トリノ冬季五輪開幕
2月11日 - 表参道ヒルズがオープン
2月23日 - トリノオリンピック女子フィギュアスケートで、荒川静香が

INFORMATION

※記事は2019年3月に発売されたFINEBOYS別冊靴vol.12からの引用になります

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